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東御廻りをゆっくり巡ってみましょう。
(1) 園比屋武御嶽
いにしえより国家行事や祭祀と密着。国王も聞得大君も道中の安全をここで祈念して出発したといわれている、東御廻りの第1番目の拝所。 守礼門の後方左手に広がる緑豊かな森、園比屋武御嶽という。石門は1519年に琉球王国・尚真王(しょうしんおう)時代に造られたもの。 王府に見込まれ首里に連れてこられた竹富島出身の西塘(にしとう)という人物によって創建された。 代々の国王が城外に出るとき、東御廻りや聞得大君(きこえおおきみ)の就任式・御新下り(おあらおり)のとき、この地で道中の安全を祈願して出発したと伝えられている。 石門は沖縄戦において戦禍を被るが、1957年に復元。その後解体修復され、2000年に琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産にも登録されている。 古代より国家行事や祭祀と密着した聖地として、いまなお参拝者が後を絶たない。
(2)御殿山
天女が降り立ったともいわれる伝説の地。聞得王君の御新下りの際、仮御殿が造営され、国王や聞得王君の久高島参拝の発着地でもあった。 与那原町与那原にある拝所。 古くは海辺であったことから、別名「浜の御殿」とも呼ばれている。 また、琉球古来の伝統社会について詳述されている琉球国由来記によれば、ここ御殿山の神名は「アマオレツカサ」で、天女が天から舞い降りた場所と記されている。 御新下りと呼ばれる王国最高神女・聞得大君の即位儀礼の折にはこの地に仮御殿が造られ、聖水の儀式・御水撫で(うびなでぃ)を行なった。国王や聞得大君の聖なる島・久高島参詣の発着地でもあり、そのときも仮御殿が造られ、ここ与那原の浜から久高島へ渡った。拝所は沖縄戦によって消失し、現在は元の場所から若干移動。かつては門中の巡礼地にこの地は入っていなかったものの、王府とゆかりのある要所として、多くの参拝者が訪れる。
(3)親川
御水撫でや東御廻りの御用水が汲み上げられた霊泉。御殿山に舞い降りた天女の御子の産井とも伝えられ、人々の憩いの場としても親しまれる。 聞得大君の御新下りのときに、霊力を得る儀式・御水撫でが行なわれた霊泉。 琉球国由来記によれば、御殿山に舞い降りた天女が御子を出産したときに、この親川の水を産井(うぶがー)に使ったと伝えられている。 与那原の民話には、与那原の裏山で与那原小浜の初日の出を拝んだ国王が、ここ親川で手足を清めたという話もある。 王府と密着した聖地である一方で、ここは古くから与那原の人々にとっても貴重な飲料水や生活用水、正月の若水や子どもの産水を汲む井泉(かー)でもあった。現在、井戸跡には拝殿が建てられ、親川広場として整備されている。 ガジュマルやデイゴの樹木に囲まれた広場は、人々の憩いの場として親しまれ、与那原の代表的な行事である大綱引きも、ここから始まり、ここで終わる。
(4)場天御嶽
琉球三山統一を果たした尚巴志の祖父・佐銘川大主が祀られている御嶽。現在の場所は移転地で、イビ御嶽ほか5つの拝所が点在する。 琉球三山統一を果たした尚巴志(しょうはし)ゆかりの地。伊平屋島から佐敷に移り住んだその祖父・佐銘川大主(さめがわうふぬし)は、この場天御嶽に祀られている。 ここは、以前は上場天御嶽と下場天御嶽の2つの拝所であった。上場天御嶽は神名「サメガア大ヌシタケツカサノ御イベ」。佐銘川大主はここに小屋を建てて、漁をして暮らしていたという。 一方、下場天御嶽は神名「コハツカサノ御イベ」。佐銘川大主の息子・苗代大比屋(なーしるうふや)、すなわち後の尚巴志の父・尚思紹(しょうししょう)が生まれた場所だといわれている。 イビ御嶽ほか6つの拝所が点在。東御廻りでこの地を拝するのは、王国と深く結びついた聖地としてはもちろん、先祖が使った御水に感謝するためとも語られている。
(5)佐敷上グスク
尚思招・尚巴志父子によって築かれ、居城とされた。グスク跡には、尚巴志の一族を祀ったつきしろの宮が建立されている。別名「上グスク」 ここには琉球三山統一を果たした尚思招(しょうししょう)、尚巴志(しょうはし)父子の居城跡がある。 三山統一の過程で、大里グスクを攻め取り、佐敷グスクより居を移し、さらに、中山城(ちゅうざんぐすく)を攻め滅ぼして移った際に城郭の石は全部首理城に運んだと伝えられ、沖縄の他のグスクにみられるような石積みの城壁などはまだ発見されてない。 聖地は鳥居を山手に入った眺めのいい位置にあり、遠く久高島も拝める。 尚巴志の500年祭を機に、佐銘川大主・尚思招・尚巴志・尚忠・尚思達・尚金福・尚泰久・尚徳の8体を合祀したつきしろの宮が建立された。命名は、第一尚氏王統の守護神「つきしろ」に由来。 台地上の先端部に築かれていることから、別名「上グスク」とも呼ばれている。
(6)テダ御川
太陽神が降臨した霊泉といわれている。国王や聞得大君が久高島参詣のときには、祝女(ノロ)たちが航海安全を祈願してオモロを謡い祈った。 テダとは太陽を意味する言葉で、太陽神がここに降臨したと伝えられている。 その昔、国王や聞得大君が久高島を参拝するときには、無事に船が航海できるようにと祝女(ノロ)たちがオモロ(奄美・琉球に伝わる古い歌謡)を謡い、航路安全を祈願したのだとか。ここへは知念崎(ちねんさき)の灯台を過ぎ、坂を下っていくと辿り着くが、テダ御川と記された石碑と説明板がなければ、かつては井泉であったことを想像するのはむずかしい。 説明文によれば、昭和8年頃に背後の知名(ちな)グスクから採石したことが原因で、清水が枯れたという。しかし、目の前に真っ青な海が広がり、ほぼ真東の方向に久高島が見えるのは神聖な光景そのもの。 東御廻りの聖地として、いまでも人々から崇められている。
(7)斎場御嶽
琉球の精神文化の象徴であるといわれる琉球開びゃく七御嶽のひとつ。聞得大君の即位儀礼・御新下りが行われた、東御廻り最高の聖地。 琉球の精神文化の象徴であるといわれる琉球開びゃく七御嶽のひとつ。聞得大君の即位儀礼・御新下りが行われた、東御廻り最高の聖地。
(8)知念グスク
沖縄最古の歌謡集・おもろさうしにも謡われた、正門・裏門の石造りのアーチ門が美しいグスク。城内の友利御之嶽(とむいぬたき)が、東御廻りの拝所。 沖縄最古の歌謡集・おもろさうしにも「ちゑねんもりぐすく」と謡われた古いグスク。 自然石を積んだ古城(くーぐすく)とアーチ門を備えた切石積みの新城(みーぐすく)の二つの郭からなっている。 古城は天孫氏(てんそんし)の時代に、新城は尚真王(しょうしんおう)の時代に築かれたという伝承がある。 城内には低い石垣で囲われた友利之嶽(とむいぬたき)があり、ここが東御廻りの聖地となっている。 城外には石畳道をはさんで古屋敷が点在し、知念按司(ちねんあじ)墓や知念ノロ屋敷跡も残る。 知念グスクは中世から近代までの複雑な建築物が城内外で見られることが特徴で、最近の調査では、13〜15世紀を中心とした土器・輸入陶磁器・銭貨・金属製品・骨類などの遺物が出土した。
(9)知念大川
知念グスクの西側入口にある井泉。玉城の受水・送水とともに、アマミキヨが稲をこの地に初めて植えたという稲作発祥の地として知られる。 知念グスクの裏門を出て、石畳の坂を下っていくと、知念大川(ちねんうっかー)がある。 ここは昔、知念グスクに付随する井泉(かー)であったといわれる。 水源地は石灰岩の断崖の奥深くに位置。井泉の後ろにある「うふぁかる」には、琉球の創世神・アマミキヨが天から稲を持ち帰り、この地に初めて栽培したという伝説が残されている。 向かって正面の一段高くなったところが、拝所である殿(とぅん)。玉城(たまぐすく)の受水・送水(うきんじゅはいんじゅ)とともに、稲作発祥の地として伝えられる。 琉球国王は聞得大君を伴って巡礼され、現在でも沖縄全島から多くの参拝客が訪れるという。
(10)受水・走水
緑の中でこんこんと湧き出る2つの泉と神田。琉球における稲作発祥伝説の舞台では現在も稲の始まりを神に感謝する行事が執り行われている。 百名の海岸近く、うっそうとした緑の中でこんこんと湧き出る2つの泉。 おだやかに流れる西側の受水(うきんじゅ)の傍らには御穂田(みーふだ)と呼ばれる田が、速やかに流れる東側の走水(はいんじゅ)の前方には親田(うぇーだ)と呼ばれる田があり、これらが琉球における稲作発祥伝説の舞台となっている。 玉城仲村渠(なかんだかり)区に継承されている田植えの儀式・親田御願(うぇーだぬうがん)は、稲の始まりを神に感謝する行事。受水・走水に隣接する親田で田植えをし、近くの御祝毛(うゆえーもー)と呼ばれる広場で神事を執り行い、参加者全員でご馳走をいただくという。 市の無形民俗文化財にも指定され、旧暦で毎年その年の初午の日に催されている。
(11)ヤハラヅカサ
アマミキヨが本島に降り立った、その最初の地と伝えられている。石碑は満潮時には海中に没して見えなくなり、干潮時に全貌を現す。 百名の浜川原にある拝所。琉球祖先神・アマミキヨがニライカナイ(海のはるか彼方にある神々の住む理想郷)から渡来し、久高島に降り立ち、次に本島に降り立った、その最初の地とのいわれがある。 ヤハラヅカサは琉球石灰岩でつくられた石碑で、石碑の下の部分にはいつの頃からか香炉が設けられている。満潮時には海中に没して見えなくなり、干潮時に全貌を現す。そのため干潮のときでなければ渡ることができず、間近で拝むことができない。 アマミキヨはここヤハラヅカサから浜川御嶽を経てミントングスク、玉城グスク、知念グスクへと歩みを進めていったと伝えられている。 清らかな砂浜、おだやかな波の向こうには石碑が立ち、さらにその左手・東側には聖なる久高島も見える。
(12)浜川御嶽
アマミキヨが仮住まいをした地。王府の東御廻りの地。 百名ビーチ北端の崖上に鎮座している御嶽。浜川とは海辺の湧き水のことで、その泉がハマガー(浜川)という御嶽名になったといわれている。 ここは、ヤハラヅカサに降り立ったアマミキヨが仮住まいをした地。琉球の創世神は、この浜川の清水で旅の疲れを癒し、ミントングスクに移動したという。 うっそうと茂る古い樹木、清らかな水が流れる泉、岩山の下に設置された祀や香炉、そのどれもが聖地の神聖なる空気に満ちている。琉球国王や聞得大君も稲穂祭にこの地を行幸。 東御廻りの他、浜川拝み、浜川うびなでぃと称して沖縄各地から一年中参拝者が絶えない。
(13)ミントングスク
アマミキヨが丘陵部へ進出して開いた安住の地と伝えられる。普通にいうグスクより祭祠遺跡として名高い、古代からの聖地。 ヤハラヅカサに上陸したアマミキヨは、浜川御嶽に仮住まいをしていたが、やがて丘陵部へ進出。グスク(城)を築き、安住の地としてここに住み着いた。 そして、この地で子孫が繁栄して沖縄中に広がったと伝えられている。久高島開びゃく、稲の発祥、沖縄への豚の最初の輸入など、ミントンにまつわる伝説は実に多岐にわたる。 その一方で、グスク頂上付近の岩陰や小洞窟には神墓と称されている拝所があり、ここは古代より祭祀遺跡としても名高い。周辺部からは、石斧や沖縄貝塚時代中期土器片、貝殻が採集されている。 東御廻りの巡礼地であり、県の指定史跡文化財でもあるが、個人の私有地内にあるので、見学の際は私有者に許可を。迷惑にならないようにくれぐれも心配りをしたい。
(14)玉城グスク
別名「アマツヅグスク」とも呼ばれる、アマミキヨが築いた琉球七御嶽のひとつ。本丸門はニライカナイに通じると伝えられている 琉球創世神・アマミキヨが築いた琉球七御嶽のひとつ。琉球国由来記によると、神名を「アガル御イベツレル御イベ」という。城内にはかつては琉球国王も参拝したといわれる天つぎあまつぎの御嶽があり、とくに干ばつの際は国王自ら雨乞いの儀式を行ったと記されている。 城は主郭・ニの郭・三の郭で構成されていたが、現在は根石を一部残すのみ。久高島や本島中南部が見渡せる高台にあるため、城門へと上る道の途中はかなり険しい。岩盤をくり抜いて作られた本丸門は、あがるい(東北東)に向けて口を開いており、ニライカナイ(琉球で伝承される海のはるか彼方の理想郷)に通じるとされている。 冬至と夏至の日には太陽の光がまっすぐと差し込み、息をのむほど幻想的な光景が広がる。